御祭神・御由緒

御祭神・御由緒

御祭神

主祭神 彦火明命ひこほあかりのみこと

別名を天照国照彦火明命ともいい天孫邇邇藝命の兄弟神。天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神様。

相殿
豊受大神とようけおおかみ
天照大神あまてらすおおかみ
海神わたつみのかみ
天水分神あめのみくまりのかみ

御由緒

神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号で四年間ご一緒にお祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。その故事により当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で「元伊勢」と呼ばれております。

両大神が伊勢にお遷りの後、養老三年に本宮を奥宮眞名井神社(吉佐宮)の地から、現今の籠神社の地へとお遷して、社名を吉佐宮から籠宮(このみや)と改め、天孫彦火明命を主祭神としてお祀りしました。

旧社名の匏宮の「匏(よさ)」と吉佐宮の「吉佐(よさ)」という宮号は現在も郡名(与謝郡)や海の名称(与謝の海)となって継承されて来ております。

社殿様式(神社建築最古の様式)

唯一神明造り

神明造り

五色の座玉

五色の座玉すえたま

本殿は伊勢神宮と同様の神明造りで、勝男木は十本、千木は内そぎになっています。
心御柱や棟持柱があり、特に高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)は、伊勢神宮御正殿と当社以外には拝せられないもので、神社建築史上特に貴重なものとされています。
これは山陰道一之大社として、古来の御神徳・社格を象徴するものであります。
神明造りのお社は他にもありますが、規模・様式とも伊勢神宮御正殿の様式に近似しているお社は当社以外にはなく、伊勢神宮と当社が古代から深い繋がりにあったことを物語っています。

延喜式における社格

当社は延喜式社格で山陰道八カ国(但馬・丹波・丹後・因幡・伯耆・隠岐・出雲・石見)中、唯一の官幣大社であり、名神大社にも列していました。

延喜式社格とは平安時代(912年)に完成した法政書『延喜式』の「延喜式神名帳」に記載された神社の社格のことであります。社格は神祇官(中央)の管轄となる「官幣社」と地方官(国司)の管轄となる「国幣社」に分けられます。更に幣帛を案(神事用の机)の上に奉るか、案の下に奉るかの違いで大社と小社に分けられます。また、国家の事変に対して奉幣し、臨時祭のあった神社を名神社と云います。

「一の宮」と「総社」

「一の宮」とは一種の社格のことで、諸国において由緒ある神社や信仰の篤い神社の序列がおのずから生じ、その最高位に列するものが「一の宮」となりました。一方、「総社」とは国内の諸社祭神をすべてお祀りしたお社で国司が奉祭する神社を云います。当社は奈良朝以後、丹後国一宮に列し、同国の総社を兼ねました。

このみや名称起源

別名を彦火火出見命とも云われた彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、海神の宮(これを龍宮とか、常世とも呼びます)に行かれたとの故事により、社名を籠宮と云うと伝えられています。