画僧雪舟は水墨画に秀れた作品を数々残しているが、中でも晩年の大作「天橋立」図は余りにも有名である。
 是は雪舟の最晩年期八十三才頃の作であろうと云われる。この作品は水墨を用いながら、真景画として歴史的信仰的景観(著名な社寺)を要所に鏤め、又庶民の家並をも暖かい筆で点綴した写実的迫力に富みながらも、一方山水画としての超俗的な流れるような自然の情趣をも見事に融合させた雪舟独自の画境を表す、稀有の名作と云ってよいであろう。是は芸術作品としての價値もさる事ながら、その當時、天橋立地方の地理と歴史を知る無上の資料である。この絵の出自は従来不明にされていたのであるが、実は雪舟は老躯この絵を描いて、その時の海部直の當主千継祝(海部直六十四代、文明十六年から永正年間、籠宮に奉仕)に奉納したものであった。と云うよりも、千継祝の需めに依って、丹後国の一宮として又、元伊勢として名だたる籠宮の境内図を描いて呉れたと云う方が、正確であるかも知れない。天橋立は、天神伊射奈岐神が、地上真名井原なる奥宮(現・真名井神社)の女神の磐座に通うため樹てた梯子が倒れたものであると、いみじくも風土記に伝えられている通り、信仰的に発祥したものである。それかあらぬか、當社は古代には天橋立を含んだ二十数万坪が、その神域であったと云われる。その後歴史の変転と共に漸次その神域は狭められ、特に南北朝期には南朝に組したために敗戦の憂目をみ、この時に広大な山林等を失ったと伝えられる。それでも雪舟が天橋立図を描いた室町期で神域神領合せて未だ五十七町歩(一七一、〇〇〇坪)残っていたのである。そして神佛習合時代であったので、境内には四十八坊(僧侶の居所・小寺院)があったと云う。雪舟はこの地に逗留した時、海部宮司宅か、或は境内四十八坊の何れかに宿泊した事は間違いないと思われる。その當時丹後国府のあったここ府中村は、三千戸の家並で殷賑を極めたと伝えられる。
 さて天橋立図の構図を眺めて見ると、當神社は右端に、正一位籠之大明神として雄渾に描かれていて画面の中心の位置ではないように見える。然し視点を変えて見ると、天橋立が殆んど画面の中央に位置し、その右端が上方に折れて、當社の海際の大鳥居を潜って更に社殿前に至る迄、白い道が一續きに描かれている事に思い至るであろう。
 是は明らかに天橋立を、籠宮の神域として、又参道として意識した描き方に外ならないのである。
 このように見る時、矢張り画面の主題的中心は、籠宮と云う事になる。更にもう一つ、是に千鈞の重みを与える点景がある。それは構図の右下に描かれている、冠島と沓島である。此の二つの小島は、与謝海と呼ばれる外海の東方海上二十余粁の所に在る。本來ならば、内海である周囲十二粁程の阿蘇海周辺をその範囲として描かれた天橋立図におさまるべくもない。その秘密を解く鍵は、冠島・沓島が籠宮の海の奥宮であった事に依ると思われる。
 昭和六十二年十月三十一日に発表された、海部氏の二千年來の伝世鏡である息津鏡邊津鏡を始祖彦火明命が天祖から親授されて、実にこの冠島(別名常世嶋、息津嶋、雄嶋、大嶋)に天降られたと伝えるのである。又、沓嶋(別名、雌嶋、姫嶋、小嶋)には后神市杵嶋姫命が天降られている。
 是は国宝海部氏勘注系図に次のように載っている。
 其の後天祖乃ち二璽神寶息津鏡及び邊津鏡是なり(天鹿兒弓と天羽々矢を副へ賜ふ)を火明命に授け給ひて汝宜しく葦原中国の丹波国に降り坐して此の神寶を齋き奉り速かに國土を造りかためよと詔り給ふ。故爾に火明命之を受け給ひて丹波國の凡海息津嶋に降り坐す。
 此の事は雪舟も海部の當主から聞き、又土俗からも知り得たところと思われる。
 以上の次第に依って、信仰的民俗的に冠島・沓島は、籠宮の海の奥宮として、敢て構図内の至近の海上に近づけられ、籠之大明神と天橋立と冠島・沓島が、離すべからざる一連の中心主題として、位置づけられたものと解されるのである。
 尚、山根道澤原著の、「丹後一覧集」(文政頃)の籠神社の条に、次のように出ている。

……本社の左に社人海部越後守が宅あり、
     是に古図あり僧雪舟か画と云傳へり、
           右の画には海部か屋根は大聖院の旧跡なり
……
 このように天橋立図は、當神社と因縁浅からぬものがあり、雪舟の奉納以後、海部宮司家に近世迄歴代大事に保存されて来たのであるが、江戸時代後期の頃、同家に困難な事情が出來し、心ならずも同家の手を離れると云う、遺憾な事態が生じた。然し現在は幸に国有となり、京都国立博物館に立派に保存されている事は何よりと思われる。


 
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