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奥宮 真名井神社

【別称】 豊受大神宮・比沼真名井(ひぬまない)・外宮元宮・元伊勢大元宮
【古称】
匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)・与謝宮(よさのみや)・久志濱宮(くしはまのみや)
【御祭神】
豊受大神を主祭神として、天照大神・伊射奈岐大神(いざなぎおおかみ)・伊射奈美大神(いざなみおおかみ)・罔象女命(みづはのめのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・神代五代神(かみよいつつよのかみ)をお祀りしています。豊受大神は別名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)・御饌津神(みけつかみ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘女神・豊受比売とも云います。また食物を司るという属性の類似性から、倉稲魂命(うかのみたま)・宇迦之御魂(うかのみたま)・保食神(うけもちのかみ)・大宜津比売命(おおげつひめのみこと)なども同神と考えられています。『丹後風土記』に収載の「天女伝説」に登場する豊宇賀能売神も豊受大神の属性の神ですが、伊勢神宮外宮の主祭神の豊受大神とは別神で、豊宇賀能売神は御酒殿の守護神である「御酒殿神」として伊勢神宮の所管社に祀られています。
【磐座(いわくら)】
真名井神社本殿の裏手には、古代からの祭祀場である磐座が三カ所あります。磐座とは、簡単に云うと神の降臨場所或いは神の鎮座場所のことで、神を祀るための神聖な石や岩のことを云います。

磐座主座

豊受大神

五穀農耕や織物の祖神でありますが、「衣食住」を始めとする、あらゆる産業の守護神でもあります。特に水の徳が顕著で、生命の守護神でもあらせられます。

磐座西座

天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神

この磐座は日之小宮(ひのわかみや)と云い、天照大神を主祭神として、伊射奈岐大神と伊射奈美大神が併せ祀られています。伊射奈岐大神・伊射奈美大神は大八洲(日本)の国生み神話で有名ですが、当社奥宮の地真名井原に降臨され、天橋立(天地通行の梯子)をお造りになった神でもあります。この磐座は両大神が夫婦仲良く揃ってお鎮まりになっていることから鶺鴒石(せきれいいし)とも呼ばれます。また横から眺めますと、船の舳先のように見えることから「天の磐船」とも呼ばれています。縁結び、子授安産、夫婦円満、家内安全、延命長寿の御神徳が著名です。

磐座奥座

盬土老翁(しおつちのおじ)   宇迦之御魂 熊野大神 愛宕神

盬土老翁の御神格は豊受大神・大綿津見神・住吉神に包含されています。 宇迦之御魂は稲荷大神、熊野大神は須佐之男神、愛宕神は稚産霊神・伊弉冉尊・埴山姫命・天熊人命・豊受姫命・雷神・迦遇槌命などを云います。

  • 天の磐船

由緒

天橋立北浜にある真名井原に鎮座する真名井神社(まないじんじゃ)は元伊勢籠神社の奥宮であり、古代には「匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)」と呼ばれていました。 匏宮は天照大神の孫神であり、海部家の始祖でもある彦火明命が創祀した「宮」で、丹後の最高神である「豊受大神」をお祀りしていました。 その御縁故により、第十代崇神天皇三十九年に皇女豊鋤入姫命が御杖代となって「天照大神」を倭国笠縫邑から当地の真名井原にお遷しになり、豊受大神と天照大神を並び併せて「吉佐宮(よさのみや)」と称して四年間お祀り申し上げました。つまり「吉佐宮」とは、神代から豊受大神をお祀りしていた「宮」或いは、崇神天皇の御代に真名井原において豊受大神と天照大神を一緒に四年間お祀りした「宮」のことを云います。天照大神は最終的には垂仁天皇二十六年九月に皇女倭姫命が伊勢の地にお鎮め申し上げました。
その後おおよそ四百八十年経った第二十一代雄略天皇二十一年に倭姫命の御夢に天照大神がお現れになり、「皇大神(天照大神)、吾、天之少宮に坐しし如く、天の下にしても一所に坐さずは御饌も安く聞こし食さず、丹波国の與佐(よさ)の小見の比沼の魚井原(まないはら)に坐す道主(丹波道主)の子、八乎止女(やおとめ)の斎奉る御饌津神(食事を司る神)、止由居太神(豊受大神)を我が坐す国へ坐さしめむと欲す」とお告げになりました。それによって豊受大神は雄略天皇二十二年七月七日に天橋立北側にある真名井原から伊勢の地にお遷りになりました。両大神が伊勢にお遷りになった後、飛鳥時代に「宮名」を「吉佐宮」から「籠宮(このみや)」と改め、奈良時代に奥宮の地から現在籠神社が鎮座する場所に遷宮いたしました。遷宮した後の「吉佐宮」においても祭祀は続けられ、「真名井神社」と呼ばれるようになりました。

創祀・創祀者・祭祀

真名井神社の地における祭祀の始まりは大変古く、少なくとも弥生時代まで遡ることが出来ます。真名井神社の裏には古代の祭祀形態である磐座(いわくら)が鎮座し、その磐座(神が宿る石)で神祀りが行われていました。神を祀る常設の社殿(神社)という形態ができたのは仏教伝来以降とされています。それまで古代人は高い木や岩石、島や川などに神々が籠もると考え、それらを崇拝対象として神祀りを行っていたのです。真名井神社の地では神代の昔から石や磐に神が籠もっていると信じられ、磐座で神祀りが行われてきました。真名井神社境内地からはすでに縄文時代から人々が住んでいた証である縄文時代の石斧や掻器などが出土し、また弥生時代のミニチュア祭祀土器破片や勾玉が出土しています。そのため真名井原一帯は縄文時代から人間が生活を営み、神々をお祀りしていた神聖な地と考えられます。
真名井原では海部家の始祖彦火明命(天火明命)が豊受大神を創祀し、二代目の天香語山命が磐境(いわさか)を起こし、「匏宮(よさのみや)」を創建し、磐座の豊受大神を主祭神として神祀りを行っていました。天香語山命は、三代目の天村雲命が高天原より真名井原に持ち下った天の真名井のご霊水をヒサゴに入れ神祀りを行っていたと伝えられています。匏宮の鎮座する山は天香語山或いは藤岡山と呼ばれています

天の真名井の水

海部家三代目の天村雲命が天上に昇られ、高天原で神々が使われる「天の真名井の水」を黄金の鉢に入れ、地上に持ち降り、その御霊水を真名井原の磐境(いわさか)の側に湧き出る泉に遷し、豊受大神をお祀りする「神饌(神へのお供え)の水」としたのが、天の真名井の水の起源となっています。この御霊水は当社の豊受大神が伊勢にお遷りになった時、伊勢神宮外宮の上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。

比沼の真名井

「比沼(ひぬ)の真名井(まない)」とは、「久志備の真名井」という言葉から転化し訛ったものと伝えられています。
「久志備の真名井」とは、奥宮真名井原の地で海部家二代目の天香語山命が天と地を繋げる「天の真名井の水」を起こし通して、天(あめ)の磐境を起こし、豊受大神をお祀りしたところ、この真名井の地に泉が湧き出て「匏(ひさご)」が生えたので、三代目天村雲命がその水を匏に汲んで、その泉に遷し「神へのお供えの水」とした神秘的で不思議な故事からその水(泉)を「久志備の真名井」と云い、それが訛ったのが「比沼の真名井」であると記されています。それにはまた、「真名井」とは「宇介井」であるとも記されています。『記紀』神話によれば、天照大神と須佐之男命は神の意志を伺うために行う占いである誓約(うけい)を行い、それぞれの所持品から天照大神は活津日子根命(いくつひこねのみこと)・正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)・天津日子根命(あまつひこねのみこと)・天之菩卑能命(あめのほひのみこと)・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)をお生みになり、また、須佐之男命は多紀理毘売命(たきりびめのみこと)・市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)・多岐都比売命(たきつひめのみこと)をお生みになりました。この神話では「神を生む行為を重視」するか或いは、「所持品を持っていた神を重視」するかによって生まれた神々が天照大神の御子神となったり、須佐之男命の御子神と考えられたりいたします。しかし、どちらにいたしましても、誓約を行い、高天原の神々が使われる「天の真名井の水」をそれぞれの神の所持品に吹きかけて、お生まれになった神々であることには間違いありません。この「天の真名井の水」が奥宮真名井神社の地に天から通じ、それを「天の真名井」「久志備の真名井」と云い、「真名井」は「誓約(うけい」の事である、と記されているのです。この地で豊受大神をお祀りしたのは海部家の始祖彦火明命ですが、その后のひとりは須佐之男命の御子神である市寸島比売命です。このように考えると、高天原における誓約(うけい)と天橋立の真名井原で行われた誓約があったと考えるのも浪漫があります。

伊勢神宮のふるさと  〜元伊勢について〜

1.元伊勢とは

伊勢神宮は大小のお社を併せて125社から構成されていますが、 その中心となるのは天照大神をお祀りする皇大神宮(内宮)と豊受大神をお祀りする豊受大神宮です。両大神は初めから伊勢の地でお祀りされていた神ではなく、他の場所から伊勢へお遷しされました。その起源を繙くと、天照大神は第十代崇神天皇六年の八月まで宮中でお祀りされていましたが、同年九月に皇女豊鋤入姫命によって初めて宮中の外でお祀りされることになりました。その後豊鋤入姫命は天照大神の御心に叶う御鎮座地を求め各地を御巡幸されましたが、途中で第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命にその任務をお引き継ぎになり、最終的には倭姫命が伊勢の地に皇大神宮を創祀されました。
「元伊勢」とは、天照大神が宮中を出られてから伊勢の五十鈴川の河上に御鎮座されるまで皇女が天照大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって各地を御巡幸になり、一時的に天照大神をお祀りした二十数カ所の宮々のことを云います。
また、それとは別に雄略天皇の御代に天照大神のお告げによって丹波国(現在の丹後)の与佐(よさ)の小見(おみ)の比沼(ひぬ)の魚井原(まないはら)にいる丹波道主(たにわのみちぬし)の娘・八乎止女(やおとめ)のお祀りする豊受大神が天照大神の食事を司る神として伊勢に迎えられました。この丹波の魚井原で豊受大神をお祀りしていたお宮のことも「元伊勢」と云います。「海部家は豊受大神を祀った彦火明命の血脈であり、丹波道主の子孫にも当たり、また海部家の直系の女性が「八乎止女」を襲名し、豊受大神をお祀りしていたことが伝えられています。」つまり、雄略天皇の御代、「丹波国の丹波道主の娘の八乎止女が祀っていた豊受大神」とは、奥宮真名井神社(古称 吉佐宮)の豊受大神であり、「元伊勢」としての由緒が明らかとなっています。
他にも「元伊勢」伝承を有する神社はありますが、天照大神・豊受大神をその血脈の子孫が宮司家となって一緒にお祀りしたのは当社だけで、特別の「元伊勢」として崇敬され続けています。



2.天照大神・豊受大神とは

天照大神は神々の中で最も尊い神としてお生まれになりました。皇室のご先祖であると同時に私たちのご先祖でもあります。天に輝く太陽のように広大無辺のお恵みを与えてくださる生命の源の先祖神です。神話によると、天照大神は孫神である邇邇芸命に高天原で作った稲穂を授け人間界を統治するよう命じ、稲や粟などを人間が生きていくための食べ物と位置づけ、更に養蚕も始められました。天照大神は邇邇芸命に稲穂の他に玉・鏡・剣(『書紀』では鏡のみ)も授けられました。邇邇芸命は天照大神の御魂が籠められた八咫鏡(やたのかがみ)を持って、日向の高千穂に降臨され、垂仁天皇の御代にその鏡は倭姫命によって伊勢に遷され、それ以来天照大神の血脈に繋がる天皇家が天照大神の祭祀を継承しています。
豊受大神は私たちの毎日の生活に必要な「衣食住」の守護神であります。また天照大神がご自身のお食事を司ってもらうために自ら丹後国からお迎えになった神でもあり、天照大神にエネルギーとパワーをお入れになる神でもあります。神話によると、豊受大神は彦火明命(籠神社主祭神であり、また海部家の始祖)の后神である天道日女命に五穀(人間の主食となる米・麦・粟・きび・豆)の種を授け、更に養蚕の技術を伝授し、私たちに生きるための糧や知恵を授けてくれました。それ以来日本人の「衣食住」の守護神として篤く崇敬されています。豊受大神は天孫降臨(邇邇芸命が天照大神の籠もられた御神鏡をもって天降り、地上を統治すること)の際、天火明命(彦火明命)と共に地上に天降られた神でもあります。彦火明命は天祖から豊受大神をお祀りするための御神鏡を授けられ、それをお祀りして国を統治するよう命じられました。彦火明命はその鏡を持って丹後国(旧丹波国)に降臨され、それをお祀りする神聖な場所を弓矢の飛ぶ方向によって、その子神である天香語山命が占い、ついに天橋立北浜に鎮座する当社奥宮の鎮座地・真名井原を豊受大神をお祀りする最高の場所と定め、「匏宮(よさのみや)」を創祀しました。それ以来彦火明命の血脈に繋がる海部家が世襲制で豊受大神の祭祀を現在に至るまで継承しています。

3.丹後の祭祀が伊勢へ  八乙女祭祀から大物忌祭祀へ

海部家の娘・八乙女がお祀りする豊受大神は天照大神のお告げによって伊勢の地にお遷りになりましたが、お遷りになったのは豊受大神だけではなく、当地の多くの人々も一緒に伊勢に移動したと考えられています。なぜなら、神をお祀りする「宮」や「社」は単体では存在できるものではなく、祭祀する人、神にお供えする米・海の幸・野菜などを収穫する人、祭祀道具を造る人など多岐に亘る能力や技術を備えた祭祀集団が必要であったと考えられるからです。
鎌倉時代に伊勢神宮の神主が著した書物には、「丹波道主の子が大物忌(おおものいみ)の祖」であることが記されています。大物忌とは、古代の伊勢神宮において祭祀上における特別の特権を与えられた女性神職のことで、その特権とは伊勢神宮のご正殿の御鑰(みかぎ)を預かり、御扉(みとびら)を開くことにありました。また御炊物忌(みかしきものいみ→神の食事をお供えする女性神職)として初めて丹波道主の子孫が天照大神と豊受大神に食事をお供えしたとも記されています。丹波道主とは大物忌の父の祖のことで、海部家の直系子孫に当たります。
このようなことから、丹後の八乙女祭祀が伊勢神宮に導入され、大物忌祭祀となったと考えられています。その祭祀形態は時代の変遷によって変化したものの、明治初期まで継承されてきました。伊勢神宮にお祀りされている豊受大神、伊勢神宮を創祀した倭姫命の母神(海部家の直系の娘)、伊勢神宮の大物忌となった八乙女(海部家の直系の娘)全て丹後出身です。
丹後と伊勢、当社と伊勢神宮は古代より深く密接な関係があったと考えられています。

平成の元伊勢おかげ参り
-神々に感謝の気持ちを伝える-

「おかげ参り」とは、江戸時代に発祥し流行した伊勢神宮への参拝のことを云います。おかげ参りの特徴は大神様に「お願い事をするためのお参り」というよりも、むしろ私たちを「日々お守り下さっている大神様へ感謝の気持ちを伝えるためのお参り」であったと云われています。伊勢神宮では外宮先祭(外宮のお祭りを内宮より先に行う)というしきたりが古代から継承されていますが、江戸時代のおかげ参りの際にも、先ず外宮にお祀りされている「衣食住」の守護神である豊受大神様へ「日々の暮らしへの感謝の気持ち」を伝え、その後に内宮にお祀りされています天照大神様へ「生命を与えて下さっていることへの感謝の気持ち」を伝えたようです。 この「おかげ参り」の風習は伊勢神宮においてだけ行われたわけではなく、豊受大神の故郷である当地天橋立まで波及し、文政年間には豊受大神の原初の祭祀場であった当社奥宮真名井神社へと「元伊勢おかげ参り」を願う多くの人々が押し寄せ天橋立は埋め尽くされました。天橋立北浜に鎮座する真名井神社と籠神社には、多くの参拝者が大神様へ作物・特産物や幟(のぼり)などを奉納し、日頃の「神恩に感謝」するため両手を合わせて静かにお祈りしたのです。奉納された幟の数は千本以上に及んだと伝えられています。その当時の光景を江戸時代の絵師松川龍椿が「元伊勢お蔭参りの図」に鮮明に描いています。
昨今予想もしない大災害が発生し、心を痛める人々が日本中に増えています。それと同時に、今ある「当たり前の暮らし」に感謝の念を抱く方々も増えています。当社は人々の暮らしをお守りする「衣食住」の神様である「豊受大神」をお祀りし、更に豊受大神を神代より丹後にお祀りした彦火明命を主祭神としてお祀りしています。当社は現在でも彦火明命の子孫が代々宮司となり、二千年来脈々と祭祀を継承し、現在の宮司で八十二代になります。当社の豊受大神は雄略天皇の御代に、天照大神のお食事を司る神として、天照大神の御神意によって、天橋立の当社から伊勢神宮へお迎えになった「天照大神の食事を司る神」でもあります。