ページ先頭へ雑誌・取材・お問い合せ

籠神社について

籠神社は第四代懿徳(いとく)天皇の御代(紀元前507年)に始まった「藤祭」を第二十九代欽明(きんめい)天皇(539~571年)の御代に「葵祭」と改称し、2500年以上その祭祀を継承しています。

【別称】 籠宮大社(このみやたいしゃ)・元伊勢大神宮・伊勢根本丹後一宮・一の宮大神宮
【旧社格】 延喜式内・名神大社・月次・新嘗・案上之官幣大社・山陰道一之大社

御祭神

主祭神

彦火明命(ひこほあかりのみこと)

天照大神の御孫神で、邇邇芸命(ににぎのみこと)の御兄神に当たられます。邇邇芸命は天照大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって日向の高千穂に天降られましたが、彦火明命は豊受大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって現在の丹後に天降られ、丹後・丹波地方を開拓し、豊受大神を丹後でお祀りになった神様です。彦火明命は穂赤命(ほあかのみこと)とも呼ばれ、稲作に関係する側面と太陽神としての側面を持ち合わせています。別名を天火明命(あめのほあかりのみこと)・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)とも云います。また社伝によれば、彦火明命は上賀茂神社の賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)と異名同神であると伝えられ、その御祖の大神である下鴨神社の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)も併せ祀っていると伝えられています。また古伝によると、十種神宝(とくさのかんだから)を持って来られた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)また、大汝命(大国主命)の御子神、火明命(彦火火出見命の御弟)、丹波道主王とも云われています。 家内安全・子孫長福・諸業繁栄・開運厄除・病気平癒の御神徳が有名です。

相殿

豊受大神(とようけのおおかみ)

国生みされた伊射那美神(いざなみのかみ)の御子神である、和久産巣日神(わくむすびのかみ)の御子神で、天孫降臨の際に天火明命(彦火明命)と共に天降られた神様です。神代の昔、丹後国(京都府北部)に天降られ、丹後の総氏神・最高神として彦火明命(籠神社海部家始祖)によってお祀りされました。雄略天皇22年、伊勢神宮にお祀りされている天照大神のご神意により、天照大神の食事を司る御饌津神(みけつかみ)として伊勢神宮外宮の主祭神に迎えられました。
五穀農耕の祖神でありますが、特に衣食住守護・諸業(産業)繁栄・水の徳が顕著で生命守護神でもあらせられます。豊受大神は別名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、国常立神(くにとこたちのかみ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)・豊受比売(とようけひめ)と云います。

天照大神(あまてらすおおかみ)

国生みされた伊邪那岐神(いざなきのかみ)の左目からお生まれになった神様です。あまねく万物を作り育てる、天に照り輝く太陽のような高い徳によって人々を照らし、日の恵みによってあらゆる生命を活動させられ、秩序を保たれる根源神です。皇室の御祖神(みおやがみ)であると共に日本人の祖先の神でもあります。天照大神は当社でお祀りしている豊受大神を殊の外崇敬され、雄略天皇の御代に当社から伊勢へ迎えられ崇祭された神様でもあります。

海神(わたつみのかみ)

社伝によると、当社の海神は山幸彦である彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)の后神の豊玉毘売(とよたまびめ)と伝えられています。航海安全・漁業満足・潮の満ち引きを司られる神様です。

天水分神(あめのみくまりのかみ)

奥宮真名井神社にお祀りされている水戸神の御子神です。天上からの水の徳によって諸々の水利・水運・水道など水に関することを司られる神様です。奥宮の水戸神と罔象女命(みづはのめのみこと)は共に神代以来最古の水神です。

境内摂社(けいだいせっしゃ)

恵美須神社(えびすじんじゃ)
御祭神は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)と当社海部家四代目の倭宿祢命(やまとすくねのみこと)です。大化以前の籠宮の元神であり、主祭神であったと伝えられています。
御神徳 商売繁盛 大願成就 大漁満足 海上安全

天照大神和魂社(あまてらすおおかみにぎみたましゃ)
御祭神は天照大神の和魂(にぎみたま)です。古代から本宮に祀る大神を和魂の働きでお祀りしています。
御神徳 万物調和 地球浄化 霊格向上 子孫繁栄

真名井稲荷神社(まないいなりじんじゃ)
御祭神は宇迦之御魂(うかのみたま)・保食神(うけもちのかみ)・豊宇気毘売(とようけひめ)です。古代から明治末迄奥宮真名井原に祀られていたのを平成三年九月九日、八十年ぶりに本社境内に再建。
御神徳 産業繁栄 商売繁盛 厄除治病 世界平和

境内末社(けいだいまっしゃ)

春日大明神社(かすがだいみょうじんのやしろ)
御祭神は春日四神と云われる武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめかみ)です。このお社は古代には武甕槌社と呼ばれたと伝えられています。
御神徳 電気関係守護 悪縁消滅 破邪顕正

猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
当社に祀る猿田彦神は古来、大世多大明神(おおせただいみょうじん)と呼ばれ霊験あらたかですが、大佐田大明神の意であろうと云われています。
御神徳 交通安全 建設守護 屋敷浄化 厄除長寿

ご由緒・創祀・創祀者

籠神社の創建は奈良時代の養老三年(719)ですが、奈良時代に初めて祭祀が行われるようになったという意味ではありません。と云いますのは、籠神社は奥宮真名井神社の地から現在の籠神社の地に遷宮され、創建されたからです。籠神社が創建されるまで奥宮真名井神社は吉佐宮(匏宮・與謝宮・与謝宮・与佐宮などと表記していずれも「よさのみや」と訓みます)と呼ばれておりました。神代の時代から天照大神の孫神であり、邇邇芸命の兄神である当社海部家の始祖彦火明命が豊受大神をお祀りしていました。そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が倭の笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。

真名井神社は飛鳥時代の初め頃まで「与謝宮(吉佐宮)」と呼ばれていましたが、その後当社海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代元正天皇の御代に、二十七代目当主海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮し、それを契機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀り創祀いたしました。

宮号の変遷と起源

元伊勢籠神社関連年表 宮号(宮名) 鎮座地 祭祀者 宮号(宮名)名称起源
神代
弥生時代
匏宮(よさのみや) 彦火明命・天香語山命・天道日女命・多岐津姫命

その後海部家の直系の女性が八乎止女(やおとめ)を代々襲名し豊受大神を祀る。
匏宮と吉佐宮の宮号起源(弥生時代)
真名井神社の古称である吉佐宮はもともと「匏宮」と表記して、「よさのみや」と訓んでいました。「匏宮」の「匏(よさ)」という漢字は本来「ひさご」と訓み、「匏(ひさご)」の褒め言葉を「天のよさづら」と云います。匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)の 「よさ」という宮号はひょうたんの褒め言葉である「天のよさづら」の「よさ」に起源があることが伝えられています。匏宮・吉佐宮では「匏(ひさご)」に天の真名井の水を入れて神祭りをしていたので、「天のよさづら」の「よさ」から「よさのみや」という宮号になったと云われています。 当社のある「宮津市」は昭和二十九年に新しく出来た「市」で、それまで当社は「与謝郡(よさぐん)」に属していました。与謝郡の郡名は「よさのみや」の「よさ」に起源があったと伝えられています。


真名井社(まないのやしろ)の宮号起源(飛鳥時代)
当社奥宮の地にあった吉佐宮が、宮号を変えて現在の籠神社の地に遷った後、旧吉佐宮は「真名井社(まないのやしろ)」と名付けられました。その後「社(やしろ)」は「神社」と呼ばれるようになります。真名井社の境内には御霊水が湧き出ています。この御霊水は「天の真名井の水」と云われ、籠神社海部家の三代目の天村雲命が高天原にある、神々が使われる「天の真名井」という井戸の水を琥珀の鉢に盛り、真名井原の泉に持ち下り、遷した水であると伝えられています。この故事により「天の真名井」から「真名井」の三文字を戴いて「真名井社(まないのやしろ)」と名付けられたと伝えられています。
崇神天皇39年(紀元前59年)
豊鋤入姫命が倭国笠縫邑から天照大御神を但波の吉佐宮に遷す。
崇神天皇43年(紀元前55年)
天照大御神が吉佐宮から倭国の伊豆加志本宮へ遷る。
垂仁天皇26年(紀元前4年)
倭姫命が各地を御巡幸ののちに伊勢の五十鈴川川上に天照大御神を祀る。(伊勢神宮内宮)
古墳時代
雄略天皇22年(478年)
当社奥宮の地にお祀りしていた豊受大御神を天照大御神のお告げによって伊勢の度会の山田原に遷す。
(伊勢神宮外宮)

吉佐宮(よさのみや)
別表記
・輿謝宮
・与謝宮
・与佐宮 など
いずれも「よさのみや」と訓む。
但波国(丹波国)とは、713年に丹後国が建国されるまで当地方が属していた国のことである。飛鳥時代頃まで現在の丹後・丹波地方(京都府中部・北部・兵庫の一部)は「たにわ」の国と呼ばれその中心は当社のある丹後地方であった。

飛鳥時代
天武天皇の御代 改名
吉佐宮から真名井社に改める 海部家の直系が祀る
天武天皇の御代 遷宮改名 吉佐宮から籠宮(このみや)に改める 真名井川辺に遷宮 第26代当主海部直伍佰道  

奈良時代
元正天皇の御代 遷宮
養老3年(719年)

籠宮(このみや) 現在の籠神社の地 第27代当主海部直愛志 籠宮の宮号起源(奈良時代)
宮号を「籠宮」に改変した際に、主祭神を彦火明命としました。 籠宮と名付けられた由縁は、別名を彦火火出見命とも云われた彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、海神の宮(これを龍宮とも常世とも呼びます)に行かれたとの故事によって「籠宮」と名付けられたと伝えられています。

籠神社の社格の変遷

社格とは神社の格式のことですが、社格には朝廷が特別由緒高い神社に授与したものと、自然と発生したものとがあります。
社格制度は昭和21年に廃止されましたが、現在でも神社の由緒の古さ等を知る一つの目安として「延喜式社格」が重要視されます。

社格関連年表 籠神社 社格 説明
弥生時代
崇神7年(紀元前91年)
天社・国社・神地・神戸を定む
天社
但し、籠神社の前身である「吉佐宮」として

[天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)]
崇神天皇七年に定められた一種の社格のようなものです。天社は天神を祀るお社のことで、国社は地祇(くにつかみ)を祀るお社のことです。天神とは「天より下った」神で、地祇とは「地上で顕れた」神のことです。 当社は天上から天降った神をお祀りしていましたので、「天社」でした

平安時代
延喜5年(905年)
延喜式社格
醍醐天皇の命により藤原時平が編幕し延長5年(927年)に完成
国家が認めた官社を定める
案上之官幣大社
祈年祭・月次・新嘗
[朝廷が官社として認定した神社 「延喜式社格」と名神社]
平安時代初期に完成した法制書である『延喜式』の巻第九「神名帳」 に記載された神社を「延喜式内社」と云い、国家のために神験著しい神社が選ばれました。これらの神社はすべて官社で祈年祭に神祇官から幣帛を賜りました。官社には神祇官の管轄(中央)となる「官幣社」と、国司の管轄(地方)となる「国幣社」がありました。官幣社と国幣社にはそれぞれ大社と小社があり、大社と小社の違いは幣帛が案(神事用の台)の上にお供えされるか、案の下にお供えされるかの違いにありました。また、官幣大社は祈年祭の他に新嘗祭などにも神祇官から幣帛を賜りました。更に国家の事変に対し幣帛を賜り臨時祭のあった神社を「名神社」と云います。 当社は山陰道八ヵ国(但馬・丹波・丹後・因幡・伯耆・隠岐・出雲・石見)中、唯一の官幣大社であり、祈年祭の他に月次祭、新嘗祭にも奉幣に預かりました。更に名神大社にも列しました。
名神社を定める 名神大社

平安中期
一の宮制度
その国の中で最も社格の高い神社が自然と定まる

丹後国一宮 [自然と発生したもの 「一の宮」]
日本全国に「一の宮」と呼ばれるお社があります。「一の宮」とは一種の社格のことで、平安時代から鎌倉時代初期にかけて順次整って来ました。この社格は朝廷が指定したものではなく、諸国において由緒ある神社や信仰の篤い神社の序列が自然に発生し、その最高位に列した神社が「一の宮」と呼ばれるようになりました。 当社は奈良朝以後、丹後国一の宮に列しました。

平安中期〜後期
総社制度
国司が崇敬した神社を一カ所に集め祭った神社

丹後国の総社 [国司が勧請した神社 「総社」]
平安中期から末期頃、国司が崇敬した管内の神社を、便宜上国府に近い場所一カ所に集め勧請したものを云います。国司は着任後国内(管内)の全ての神社を巡拝することが最初の仕事でもあったので、奉幣・参詣の簡便化を図るため総社の制度が広まったとされています。総社は国司の着任儀式の場として、また国衙関係の祭祀執行の場として使用されました。総社には国府近辺或いは国府内に新たに社殿を設置するケースと、既存の神社が総社とされるケースとありましたが、後者の場合は「一の宮」が総社とされる例がありました。 当社は丹後国府内に鎮座しており、「一の宮」と「総社」を兼ねました。
明治時代
近代社格制度
官社・諸社を定める
国幣中社 [明治政府によって区分された社格]
明治四年に全国の神社は神祇官の管轄(官社)となる「官幣社」、「国幣社」、「別格官幣社」と、地方官の管轄(諸社)となる「府社」 、「県社」、「郷社」、「村社」、「無格社」に区分されました。「官幣社」と「国幣社」には、それぞれ大社・中社・小社があり、この区分方法は明確な基準が設けられていたわけではなく、社殿の規模(大・小)や境内面積によって決められました。皇室ゆかりの神社等が「官幣社」となり、祈年祭・新嘗祭・例祭に皇室から幣帛を賜りました。また主として土地と密接なつながりのある神社は「国幣社」となり、祈年祭・新嘗祭に皇室から幣帛を賜りました。多くの国の「一の宮」は明治の新社格制度では「国幣社」に組み替えされました。当社も例外ではなく、明治に「官幣大社」から「国幣中社」となりました。
昭和20年
官幣大社に昇格
官幣大社 [昭和二十年に官幣大社に昇格]
先代の第八十一代宮司は、当社が古代には山陰道八カ国中唯一の官幣大社であったにも拘わらず、他の「一の宮」同様に「国幣社」に格下げされた事を畏れ恐こんで、詳しい由緒資料と、更に丹後五郡全域の首長並びに有志の署名をも合わせて官幣大社昇格請願書を昭和十五年十一月十日、内務大臣安井英二氏に提出しました。これが東京大空襲直前の昭和二十年三月二十五日の第八十六回帝国議会で当社の官幣大社昇格が満場一致で可決採択されました。
昭和21年   [社格制度廃止]
社格制度は、昭和二十一年勅令第七十一号によって廃止されました。

社殿様式

ご本殿は伊勢神宮と同じ「唯一神明造り」です。柱は丸く棟持柱や心御柱があります。屋根は前後二方向に勾配を持つ「切妻造」で、棟と平行して入り口がある「平入り型」になっています。屋根の両端には屋根を貫いた千木(ちぎ)が天に向かって聳えています。

御本宮である籠神社の本殿の千木は天に対して水平に切る「内そぎ」となっており、千木と千木の間にある勝男木(かつおぎ)は十本(偶数)です。一方、奥宮である真名井神社の千木は天に対して垂直に切る「外そぎ」となっており、勝男木は五本(奇数)となっています。

社殿は高床式の素木造りで全て直線的です。特に高欄上の五色(青・黄・赤・白・黒)の座玉(すえたま)は伊勢神宮御正殿と当社以外には拝せられないもので、日本建築史上特に貴重なものとされています。神明造りのお社は他にもありますが、規模・様式とも伊勢神宮に近似しているお社は当社以外になく、当社と伊勢神宮が古代から深い繋がりがあったことを物語っています。

神話と伝説

1.丹後の真名井神社(籠神社奥宮)から伊勢神宮への御鎮座神話

天照大神御鎮座神話

第十代崇神天皇六年まで、宮中でお祀りされていた天照大神は、皇女豊鍬入姫命に託され宮中の外にお祀りされることになりました。最初にお祀りされた場所は倭国の笠縫邑です。その次、崇神天皇三十九年に天照大神と豊受大神をご一緒にお祀りしたのが当社奥宮真名井神社(古称 吉佐宮)です。その後豊鍬入姫命は各地を巡られましたが垂仁天皇の皇女である倭姫命に引き継がれ、垂仁天皇二十六年九月に倭姫命が伊勢の地に神宮(内宮)をご創祀になりました。倭姫命の母神は比婆須比売命(ひばすひめのみこと)と申し、当社海部家の直系子孫であり、垂仁天皇の皇后に上がられました。そのため倭姫命は海部家の外孫に当たられます。丹後(『古事記』の時代は丹波国)と大和の血を引く倭姫命が天照大神を伊勢までお遷しになったという伝承は大変意味深いことと云えます。

豊受大神御鎮座神話

天照大神が伊勢に御鎮座になってからおよそ四百八十年後の雄略天皇の御代に、倭姫命の夢に天照大神が現れになり、「皇大神、吾、天之少宮に坐しし如く、天の下にしても一所に坐さずは御饌も安く聞こし食さず、丹波国の與佐の小見の比沼の魚井原(まないはら)に坐す道主(丹波道主)の子、八乎止女の斎奉る御饌津神止由居太神を我が坐す国へ坐さしめむと欲す」と告げられました。それにより、明年の七月七日、大佐々命や興魂命、丹波道主の子孫など多くの神々が丹波国与謝郡(現・宮津市)までお迎えに見え、雄略天皇二十二年(四七八)に伊勢にお遷りになりました。その際、倭姫命も伊勢からお見えになり、真名井原の藤岡山(当宮奥宮真名井神社が鎮座する山)にある磐座の傍らに湧き出る天の真名井の水を伊勢の藤岡山の麓にある伊勢神宮外宮の上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。

2.伊勢神宮の酒殿明神となった与謝宮の天女伝説

神代の昔、八人の天女が真名井神社の神域に舞い降り、粉河(こかわ)と呼ばれる川(当社奥宮の横の真名井川)でお酒を造っていました。その時、塩土翁(しおつちのおきな)が天女に欲を出し、一人の天女の羽衣を隠してしまい、天女は天に帰れなくなりました。そのため、しばらく翁と夫婦となり、この地で酒造りに精を出しました。天女はいつも光を放ちながら空を飛び、その光景はまるで鳥籠から光を放っているようでした。与謝郡に豊受大神を祀る与謝宮(よさのみや)が造られ、この天女が豊受大神をお祀りしました。籠から光を放つことから与謝宮は籠宮(このみや)とも呼ばれました。この天女は食べ物を天からたくさん降らせました。そしてこの天女は丹波の与謝宮から伊勢神宮の所管社である御酒殿(みさかどの)の守護神・醸造神として勧請されました。これが日本酒の始まりとなりました。

3.天橋立起源神話

神代の昔、国生みをなさった男神伊射奈岐命(いざなぎのみこと)が、地上の真名井原(奥宮真名井神社の鎮座地)の磐座(いわくら)に祀られていた女神伊射奈美命(いざなみのみこと)のもとに通うため、天から大きな梯子(はしご)を地上に立て懸け通われました。ところが、伊射奈岐命が寝ていらっしゃる間に、一夜にして梯子が倒れてしまい、それが天橋立となったと伝えられています。

4.狛犬伝説

社頭の狛犬二基は鎌倉時代の名作として重要文化財に指定されています。その昔、作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬が天橋立に暴れ出て通行人を驚かしたので、たまたま仇討ちに来ていた豪傑岩見重太郎が一夜待ち伏せ、剛刀で狛犬の脚に一太刀浴びせたところ、それ以来社頭に還り事無きを得て、爾来魔除けの狛犬と云われて霊験があらたかになったと伝えられています。

籠神社周辺の遺跡

丹後国の面積はさほど広くありませんが、大小の墳墓や古墳を数えると五千基ほどあります。これは墳墓・古墳の密集度という視点から云えば、丹後は密集度日本一に属します。奥宮真名井神社や本宮籠神社の周りには沢山の遺跡があり、貴重な考古資料が発掘されています。真名井神社では縄文時代の磨製石斧や磨石、弥生時代の祭祀土器や勾玉、日常用の土器、鎌倉時代の経筒などが発掘されています。また、籠神社では古墳時代の土師器や須恵器、平安時代の 祭祀土器、鎌倉時代の経筒、経石が発掘されています。 真名井神社のある藤岡山の麓では、弥生時代中期の王墓である丹後特有の方形貼石墓が発見されました。紀元前一世紀頃、若狭湾の航海権を掌握し、真名井神社の磐座で祭祀を執り行っていた海人族の王の墓かもしれません。また、その近くで古墳時代の水辺の祭祀遺構(難波野遺跡)が発見されました。土器が「コ」の字状に配列され、ミニチュア土器の散乱状況から北東の日本海に向けての祭祀が考えられます。その延長線上には籠神社主祭神とその后神が降臨された当神社の海の奥宮である冠島があります。冠島は真名井神社・籠神社・難波野遺跡から見ると、艮(うしとら)の方位にあたり、 一方、真名井神社・籠神社・難波野遺跡は冠島から見ると、坤(ひつじさる)の方角になります。表鬼門と裏鬼門の関係になります。 周辺の遺跡や発掘された考古資料から、天橋立北浜の一帯は古代から祭祀が行われた特別な聖地であったと考えられています。